arasan1951’s blog

69年間の人生の叡知!森羅万象に物申す

癌研の待合室

癌研とは癌研有明病院の事です。

今から10年ほど前、大腸ガンを患ってお世話になりました。

癌研と言うぐらいですから、そこの患者さんはすべてガン患者かその恐れがある人ばかりです。

その待合室。

各部屋には、担当の先生の名札がかかっており、その前で待つのですが、必ずといって良いほど、待たされます。

最初に行ったのは、日大板橋病院でガンが発見され、紹介状を持って行きました。

その後は、手術の打合せと、術後検査の時です。

その待合室で待たされると、必ず、いろいろな妄念が涌いてきます。

これだけ待たされるのは、何か重大な事が発見されて、その準備をしているのではないか?とか。

ところが、私の場合はお陰様で、だいたい何事もなく、先生から、待たせてごめんなさい、と言われるだけなのですが……。

退院後、5年間、3カ月おきに行くのですが、行くたびに同じような妄念が涌いて、どうしても待つことに慣れることができませんでした。

そこで待っている人はすべてガン患者です。

中には同じ集中治療室に入った人とか、顔なじみがいます。

ああ、まだあの人も生きている、失礼な話ですが、そう思うとホッとします。

その人も、私を見て、きっとそう思っているに違いありません。

寒空の下、地下鉄の排気口

前の会社に勤めていたころですから、もうかれこれ30年ほども前のことになります。

クリスマスの夜でした。

仕事を終えて大塚の駅に向って歩き出したとき、地下鉄の排気口の上に毛布のようなものが置かれているのに気づきました。

結構風が強かったのに、毛布のようなものは微動だにしません。

何だろうと不思議に思って近づきながら、思わず私はその場に釘付けになってしまいました。

暗闇に目を凝らしてみると、紛れもなくそれは毛布をかぶった人間の寝姿なのだったのです。

私は凝然とその毛布にくるまれた塊を見ました。

時刻は夜の11時を過ぎていたでしょうか、気温は低く、吹き荒れる北風に体が小刻みに震えてきます。

しばらくその場でその塊を見ていましたが、いつまで見ていても、その塊は微動だにしません。

電車の時間があるので、その場を離れながら、クリスマスの夜に、暖を取るために、地下鉄の排気口の上で寝ている人の気持ちを想像してみようとしましたが、あまりに過酷な状況に、その気持ちを推しはかることもできません。

ただただ、自分がクリスマスの夜に地下鉄の排気口の上で寝ないで済むことを感謝するばかりです。

お釈迦様は、人生の苦労を生老病死の四大苦と言いましたが、今は、それに貧困を加えて五大苦ではないでしょうか?

いまだに、どんなに自分が苦境にあろうとも、あの寒空の下の地下鉄の排気口に転がっていた塊を思い出すと、自分の幸運を感謝せずにいられません。

炬燵の天板、今は私のデスクトップ!?

炬燵が古くなったので、買い替えました。

その際、ふと思いついて、炬燵の天板を私のデスクトップに転用しました。

小さな机の上に、大きな炬燵板を載せた、ただそれだけです。

実は、大きな机が置けなかったので、私の仕事机はかなり小ぶりです。

天板を載せてみると、これが実に快適でした。

考えてみれば、炬燵板の上には身辺の細々としたものが所狭しと乗っていて、場合によると、そこで本を読んだり、仕事をしたり、その辺の事がかなり機能的に出きるような大きさで作られているのですから、机のデスクトップにすれば、仕事の道具も機能的に置けるのは何の疑問もありません。

私のデスクトップ(机上)にはMac Proのモニターが2台と、MacBook1台、それにブルーレイディスクドライバー、置き時計その他もろもろがあるのですが、これだけのものがありながら、A3ノビの用紙がタテにカッターで切れるという広さがあります。

これには私も感動して、つくづくと、元炬燵の天板であったデスクトップをしみじみ眺めました。

そして、実は私がデスクトップ・パブリッシングのエキスパート(今年の4月からはエキスパート+マイスター)であることにふと気づき、やっとデスクトップ・パブリッシングのできる環境になったなぁ、と思ったのです。

ポンコツの私が、いつかお払い箱になったとき、他の誰かのデスクトップになって、お役に立つことができるのでしょうか?

気が早いですが、お墓参りしてきました!

ちょっと気が早いですが、お墓参りをしてきました。

両親と、次兄のお墓が高雄の東京八王子霊園にあります。

新宿まで折畳み自転車で行って、新宿から高雄まで輪行し、高雄からお墓までと、そこから自宅まで、約50キロを自転車で帰ってきました。

まだ人は少なかったですが、お墓のところどころにお花が上がっていました。

備え付けのバケツと柄杓とタワシで、お墓の掃除をしたのですが、ここは管理が行き届いていると見えて、お墓は掃除の必要もないほど、きれいでした。

が、まあ、一応掃除をして、お花を供えて、お線香を灯して、手を合わせると、後は何もやることがありません。

ふと気が付いて、お墓の裏に回って戒名を眺めていると、両親と兄の名前は良いのですが、そこに、幼くして亡くなった私の兄と姉の名前が刻まれていました。

静枝2歳、昭夫3歳、照子当歳、とありました。

いずれも戦中の昭和16年〜19年に亡くなっています。

それを見ながら、改めて、ここに立っている自分とは何だろう?と思いました。

ちょっと時代がずれていれば、私も幼くして命を無くしていたかも知れないのです。

帰りの道々、50キロの道のりを必死で漕ぎながら、念仏のように、2歳、3歳、当歳、と何度も口の中でつぶやきました。

家に着いたとき、なぜか、私はいつも以上に疲れ切っていました。

どん底のオーバー・ザ・レインボー

オーバー・ザ・レインボーは戦前のアメリカ映画『虹の彼方に』の主題歌。

虹の橋の下に、幸せの国があると言う歌詞です。

私は、人生どん底の時に、美しい虹を見ました。

そしてこの歌の歌詞を思い出したのです。

ちょうど30代後半から、40代後半にかけてで、何か、息をするもの苦しかった思いがあります。

そんな折に、或る日、しとしとと降る雨の日に、犬の散歩に出て、突然、晴れ渡る青空と、大きな虹を見たのです。

家に帰って、まだ幼稚園に通っていた下の娘に言うと、私も見た、と言いました。

それから約30年、今その娘と孫と一緒に暮らしているのですから、人生分かりません。

今から思うと、人生苦しかったからこそ、虹は美しく、青空はどこまでも高く見えたのだと思います。

今でも、この歌の旋律が聞こえてくると、苦しかった日々を思い出します。

人生3度の浪人生活!

一度目は大学入試に失敗した18歳の春から1年間。

二度目は就職に失敗した大学卒業からの半年間。

三度目は、「それでもあんたは社長か」と言って首になってからの半年間。

でも、それらは、決して回り道でもなかったし、無駄ではなかった。

一度目はそれまでの自分を見直し、文学部に志望を決めて、毎日弁当持参で図書館に通って勉強し、遂に早稲田大学第一文学部に入学しました。

二度目は、友人から借り受けた英文タイプライター、レッテラブラックに興味を持ち、独学でブラインドタッチを習得し、後々ワープロやパソコンで周りをびっくりさせました。

三度目は、首になったことが、親にも言えず、もんもんとする中、カントに出逢って、『純粋理性批判』を半年間読み込みました。

そこで、絶対的な理性も、判断力も、実行力もなくて、人間はその能力に応じてそれらを行使するしかないことを学びました。

いずれの浪人生活も、今から考えると私にとっては必然のように思えてきます。

では、今この年金生活は4度目の浪人生活なのでしょうか?

そう、今私は、4度目の浪人生活で、誰にも出来ない、独自の世界を構築しようとしています。

まずは、結果をご覧じろ!?

ロックアウトの憂鬱

ロックアウトという言葉も、死語になってしまって、今はもう殆ど耳にすることはありません。

しかし私が早稲田に行っている時は、毎日このロックアウトの中で暮らしていました。

当時は70年安保からその挫折直後で、政治的心情を持たない学生はノンポリと言われて、みんなからバカにされていました。

私はその代表的な存在で、全く政治に興味は持てませんでした。

その当時、早稲田の文学部は、革共同革マル派の拠点で、ヘルメットにゲバ棒を持った輩が肩で風を切って歩いていました。

その革マル派の学生たちが、教室や廊下に椅子や机を積み上げて、学校を封鎖してしまうことをロックアウトと言います。

学費値上げはまだ分かるとしても、成田闘争の共闘だとか言ってロックアウトするのは全く意味が分かりませんでした。

自分たちで月謝を払っておきながら、授業をさせないというのは一体どういうつもりなのでしょうか。

しかし、ノンポリの学生たちは、それを口に出せませんでした。声に出せば、自己批判を迫られて、場合によっては集団リンチを受ける恐れがあったからです。

いまだにあの時の恐怖を夢に見ることがあります。