人生の上澄み
濁った水をコップに入れてしばらくすると、汚れが沈殿して、上の方が透明に澄んできます。
これが上澄みですが、人生も同じこと。
この歳になると、いろいろな出来事の固形物が沈殿して、透明な上澄みが見えてきます。
事件当初の感情の軋轢も去り、心も静かに落ち着いて、上澄みのように澄んで、いろいろなことがくっきりと鮮やかに見え始めてきます。
でも、ここで一呼吸置いて考えます。
これは事件や出来事が時を経て落ち着いたのではなく、私の気持ちが落ち着いて、物事がスッキリ見えるようになっただけだと。
であれば、いくら歳を重ねたといえども、ここで同じようなことをすれば、また同じように濁った世界に舞い戻るのだと。
歳を召された皆々様、くれぐれも自分はもう達観したのだから大丈夫などと思いませんように。
最近は老人の事件が急増しているようで。
平常心って何?
新型コロナウイルスの感染拡大が止まない今日この頃、だからこそ平常心を忘れず、心穏やかに過ごしたいと思わずにいられません。
では、その平常心って何?
改めてこう聞かれると、意外と分かっているようで、分かっていない人が多いのではないでしようか。
いつも通りの心持ち、あるいは、普段通りに飾らずに、とか答える人が多いと思います。
それはそれで大変素晴らしく、何ら異議を挟むつもりはありませんが、何故か私は平常心と聞くと、サーフィンを思い浮かべます。
と言っても、私はサーファーでもなく、サーフィンを趣味にしている訳でもなく、ただ海水浴に行く時に、小さなサーフボードもどきの浮具を持って行って、波と戯れているだけなのですが、それでも、サーフボードで波に乗る感じは分かります。
実は、東日本大震災の大きな揺れに揺られながら、何故か私はこの小さなサーフボードで波に揺られる感覚を思い出していたのです。
地震に大きく揺られながら、多くの人が机の下に逃げ込むのを見ながら、揺れの感覚を確認していました。
そしてもし床が崩れたら、どう体を動かしてバランスを取ればいいかを考えていたのです。
まるでサーファーが大波に乗って遠くまで到達するように、崩れた床に乗って安全な場所に到達した自分の姿を思い描いていたのです。
確かに地震の揺れは恐ろしかったけれど、だからこそ、どう揺れているのかを、全身の感覚を研ぎ澄ませて捉えてこそ、人間が動物である証ではないかと思ったのです。
ふとその時、私の心に「平常心」という言葉が浮かびました。
平常心とは漫然と時を過ごすことではなく、五感を研ぎ澄ませ、周りの状況の変化を瞬時に読み取って、普段から鍛えた筋肉でその状況を潜り抜けて行く、それこそが平常心だ、と思ったのです。
一番良くないのは、恐怖に駆られて、その場に立ち尽くすことです。
誰もが恐ろしいに違いないのです。
こういう時こそ、心身をリラックスさせて、どのような状況にも対応できる柔軟さを持たなくてはいけません。
沖に出て、大きな波が来た時、確かに覆い尽くされそうになる恐怖を感じながらも、いつ蹴り上がればいいか、全神経を研ぎ澄ませて、その波を待ち受けるべきではないでしょうか?
絶望できるという可能性!?
言葉遊びではありません。
聞きなれない言葉ですが、意味をきちんと辿ると、とても含蓄のある言葉です。
大学の哲学のレポートの課題として読んだものです。
「絶望できるという可能性」とは何かというと、かみ砕いて言うと、何時だって諦められるよ、ということで、いろいろやっても、駄目なら諦めりゃぁいいんだ、と開き直ることです。
でも、キルケゴールは「絶望するのは堕落だ」とも言っています。
何時だってやめられるし、いろいろやって、駄目ならやめればいい、と言いつつ、止めてしまうのは堕落だ、とこう言っているわけですね。
私はこの「絶望できるという可能性」を知らずに、頑張ったため、精神病院に入院してしまいました。
病名は「躁状態」だったのですが、先生からは、あなたの病気は「頑張りすぎ」と言われました。
「絶望無くして希望無し」とよく言われますが、正しくは「絶望できるという可能性があるからこそ、希望を探せる」と言うべきでしょう。
この歳になって初めて、「絶望の哲学」が分かったかも知れません。
人生に「コマンドZ」があったなら!
「コマンドZ」とはMacのキーボードで、正しくは「⌘+Z」です。
直前の操作を元に戻せる魔法のキーで、Windowsでは、「コントロール+Z」です。
データの削除等一部の操作を除き、Mac上でしているほぼすべての操作が「⌘+Z」の対象です。
これはとても便利な機能で、いまや、これなくしてMacは使えない、と言ってもいいほどです。
この「⌘+Z」を使いながらいつも、人生にも「⌘+Z」があったらなぁ、と思います。
私の場合、人生のいろいろな局面で、もし「⌘+Z」が使えたら、どれほど私の人生は変わっていたでしょう。
しかし、ちょっと待ってください。
ひょっとすると、私という存在そのものが、人類にとっては「⌘+Z」の対象なのかも知れません。
私のような存在は、人類にとってあるいはなかったことにした方が良いのかも知れませんから。
そこまで考えて、ふと私は思いました。
いや、そうではなくて、人類そのものが、全生命から見たら、「⌘+Z」の対象なのかも知れません。
ある日、何ものかが人類に対して、「⌘+Z」を発動したら……?
キーボードの上の私の指が、「⌘+Z」を押そうとして、痺れたように動かなくなりました!?
癌研の待合室2!!
癌研有明病院の待合室は癌患者ばかりです。
癌以外の病気の方はいません。
さぞやくら〜い雰囲気かと思いきや、これがまあ、何と、とにかく明るいのです。
最初は不思議だと思ったのですが、考えてみれば、何ということはありません。
みんな不安な面持ちで来院するのですが、周りはみんな自分と同じ病気の人ばかり、それも、症状が自分より重い人がいると、自分を省みて、ホッとして希望がわいてくるのです。
人間は心配事があると無口になりますが、うれしいことがあると雄弁になります。
私も声を掛けられて、「大腸ガンは切ったら終わり」と励まされて、とてもうれしくなりました。
笑い声を挙げたかも知れません。
その人は胃の中に2つ、外に1つ癌があるのですが、外の癌を放射線で叩いて小さくしてからでないと手術できない、と言って、それでも、ここでしか治せない、と豪快に笑いました。
その何とも言えない泣き笑いを見ながら、それにしても、患者を待たせるのは止めてもらいたい、と言うと、ホントだよな、何を言われるのか気が気じゃない、と。
大腸輪切りのグリーンの点線!?
これだけでは何のことだかさっぱり分かりませんよね。
これは、日大板橋病院の消化器内科の先生に見せられた、大腸のCT画像の結果です。
癌かも知れないということで、2日にわたって、実にいろいろな検査をした結果を教えてくれる、ということで、私は娘と二人、指定された時間に診察室を訪ねました。
開口一番、肺にも、肝臓にも……、と言われたときは、てっきりこれは駄目だ、と思いましたが、続けて、転移はありませんでした、といわれて、どれほどホッとしたか知れません。
続けて見せられたのが、この写真でした。
最初、何の写真だか分からず、ボーッとしていると、この丸いのが腸壁で、所々点線になっているのが癌です、これは今正に癌が腸壁を浸潤しようとしている間際の写真です、と医師。
確かに、よくよく見ると丸い腸壁が所々点線の様にグリーンになっています。
追い討ちをかけるように、医師は、癌が腸壁の外に出ていたら、アウトでした、と。
あと半年遅かったら、多分アウトでした、と。
私も娘も一言も声を出すことができません。
正に、このグリーンの線が点線ではなく、実線だったら、それで、私の人生はアウトでした。
病院からの帰り、自転車を漕ぐ足が、どうしようもなく小刻みに震えていました。
自分の死をはっきりと目の前に示されると、やはり、人間はたあいないものですね。
今日は潰れた会社の創立記念日!
3月9日は5年前に倒産した会社の創立記念日、明日10日は離婚記念日で孫の誕生日、11日は東日本大震災。
今日から3日間は、何かと、心が過去をさまよう日であります。
まずは、潰れましたが、実にユニークなVNCという会社の設立趣旨です。
潰れた会社の設立趣旨をなんで今さら、と思われるかも知れません。
確かに、そんなものは見たことも、聞いた事もありません。
ですが、いろいろな事情でうまくは行きませんでしたが、このVNCというのはとてもユニークな会社を目指しました。
この会社を作るとき、私の心から敬愛する年上の友人と議論を重ねて、今までの縦型社会からは見えない、職人(クラフトマン)及び、テクノクラート(技術者)の横型ネットワークの会社を作ろうという事になりました。
VNCとはvirtual net craftの略で、世の中の知識・技術、を会社などのしがらみを取っ払って、横型ネットワークで有機的に統合して行こう、という遠大なもくろみでした。
したがって、VNC傘下のクラフトマン及びテクノクラートは誰かに雇用されているということもないし、誰かを雇用していることもありません。
必要とされる知識・技術を必要とされるだけ、提供する、そんなビジネスモデルを考えていたのです。
しかし、この考えはあまりに唐突で、世の人々からは理解されませんでした。
ですが、私は今なお、このもくろみに希望を抱いています。
横型ネットワークに乗っかった、見えないクラフトマン、格好良いと思いませんか?